傷跡-おまけエッセイ-
「こどもの日」が雨になってしまったのはめずらしい。
私が子供のころはもちろん、成人してからもほとんど記憶にない。それが今年は雨だ。子供たちには気の毒だ。
もう六〇年以上も昔になってしまう昭和三〇年代。当時は五月四日が祝日ではなかったので、四日が日曜日でないかぎり五月五日は飛び石連休の最終日だった。
兄も私も小学生。両親もまだ四〇歳代。豊かな家庭とは言えず、平屋の家屋も少し傾いていた。太平洋戦争の最中に建てられたため、二三年持てばよいという造りだったという。父が手入れをしながら何とか持たせていた。そのため台風のときは地震のように揺れて怖かった。
そんな三間(みま)ほどの家に家族四人とネコ一匹とで暮らしていた。どの家でもネズミの多い時代だった。
「こどもの日」は母が太巻き寿司をたいてい作ってくれた。魚物は鮪(まぐろ)の握り。それだけだった。吸い物はあったが、ともかく膳の上が一杯になるなどということはなかった。
それでも寿司が食べられサイダーも出してもらえて、私たち子供はちょっとした正月気分というところだった。
そして、新聞紙で折ったカブトをかぶったまま食べることができた。カブトはたぶん父が折ってくれたのだろう。それをかぶったまま食事ができるのがうれしかった。
またこの日は明るいうちに父と風呂へ入ることが多かった。日の入りも遅くなっているころだから。
父は菖蒲(しょうぶ)の束から一本引き抜くと私たちの頭へ巻いてくれた。理由を尋ねると「頭病(あたまや)み(頭痛)」にならないためのおまじない、と言った。
ところが、私はそれから五〇年近く頭痛に悩まされるようになるとは想ってもみなかった。ようやく解放されたのは約一〇年前、六〇歳のころだ。それまでは毎日のように、ことに雨が降る前になると必ず痛んだ。頭痛薬は欠かせなかった。
父の右肩の背中側にはただれた傷跡があり、子供には気味が悪かった。それは父が日中戦争へ参戦したときに弾丸が貫通した痕(あと)なのだという。当たった胸側にはほとんど何もないのだが、弾が抜けて行った背中側はひどくただれていた。そのときには二〇年近くも経っていたのだが。
「痛かった?」
「夢中だったから痛いとは思わなかったな。肩が妙に熱かったことは覚えているよ。夜の戦闘だったので弾が当たったとは気がつかないで、誰が蹴とばしたのだろう、と思ったんだ。後ろへ飛ばされたからね」
「ふーん」
「それから這(は)って機関銃の所まで戻った」
父は軽機関銃手だった。
「撃とうとしたら右腕が動かない。戦闘服の内側が妙にベタついている。恐る恐る触ってみると手のひらがまっ赤だ。それでようやく撃たれたことに気がついたんだ」
私の小さな背中を洗いながら父は話してくれた。はるか昔のことなのだが、父とのこの話は今も記憶に残っている。
その戦闘で鎖骨(さこつ)が折れて以後、右腕は十分に力が入らないということだった。
父の負傷箇所はもう一ヶ所あった。中国軍の投げて来た手榴弾(しゅりゅうだん)を拾って投げ返した。放り投げた瞬間、爆発した。破片が飛び散り左腕へいくつも刺さった。
また風土病と思われる熱病にもかかり、これも数十年近く再発を繰り返していた。様々な後遺症は残ったが、四年もの戦闘でよく生還できたと想う。
この話は兄も一緒に聞いていたのだが、ほとんど興味を示さなかった。それよりも早く風呂から出て寿司を食べサイダーを飲みたかったのだろう。
飛び石連休という休み方を私は好きだった。登校しても明日はまた休み、という楽しみがあった。
しかし、五月の連休が過ぎてしまえば、また日常が戻って来てしまう。そうなると私だけでなく級友の誰もがもう夏休みを待ちかねた。 (二〇二一年五月)